命が一番大事

 まず、大事なのは心身の健康です。学校に行くことでも、勉強をすることでもありません。多くの場合、学校に行きたがらない子どもは、身体に異変が起こります。朝、学校に行く時間になると、お腹が痛くなる、気が付かないうちに髪の毛が抜けてくる等。頭というより身体=生命の次元で学校を嫌がっているようです。大人でもそのようなことはあります。ゴミのような意味のない仕事をやらされているにもかかわらず、生活のため、家族のためにやらざるを得なくなり、会社を辞めるに辞められなくなるというように、追い詰められるだけ追い詰められている方もいます。

 紋切り型ですが、不登校は得てして「怠学」と受け取られかねません。しかし、時として、「命」にかかわるような境遇まで追い詰められていることがあります。危険なのは「痛覚」という人間以外の動物ならば自明な感覚が人間の場合鈍麻してしまい、頭では「学校に行かなくてはいけない」と思いつつも、身体は嫌がっているという分裂がおこってしまうということです。そういう場合、まず身体の反応に耳を傾けることが大切です。

 繰り返しますが、「命」よりも大切なものはありません。「逃げる」ということは、時として戦うことよりも勇気を必要とします。休息が必要です。

ケアの倫理

現代哲学の有力な思想に「ケアの倫理」があります。これは「正義の倫理」という20世紀の有力思想に突き付けられた新しい思想です。「正義の倫理」が「自立」や「自律」という強い個人もしくは男性的な原理原則を基にするならば、「ケアの倫理」は「依存」や「相互依存」という弱さを肯定する女性原理を基にする思想です。たとえば、皆、誰でも、お母さんにケアされて育ったという事実を指摘するだけでも、「ケアの倫理」は「自立」「自律」にとって代わるくらいの原理論になることがわかります。

弱さを肯定すること。誰でも、頼り頼られながら、生きていること。このような生の実相を見てみるだけで、「ケア」というものがいかに重要かがわかります。

 

 

共感と受容に基づく人間関係へ

 昔は不適応というと、当事者に問題がある、当事者が異常という偏見がありました。しかし、フリースクール等の施設の社会的認知が進み、不登校現象が一般化された現在は違います。経験から言っても不登校当事者はきわめて正常です。それどころか、好感の持てる子どもばかりです。要するにいわゆる「いい子」が多い。いい子でありすぎて、社会的不適応に陥るのではないかと思うくらいです。繊細で感受性が強く、それゆえに人間関係に傷つくことがある。

 逆に、当事者に問題があるというより集団の側に歪みがあると思われることもしばしばです。すべての集団がわるいというわけではありませんが、子どもの世界にも新自由主義的風潮が浸透してきていると推測することもできます。私自身は長年、学習塾に勤務してきましたが、親御さんの心配や不安の表現からそれが読み取れます。たしかに競争原理が強く働くようになっている。

 大人の世界でも、競争原理の強化が経済格差をはじめ、様々な格差を生じさせている。それゆえ、ストレスに耐え切れない場合がある。たとえば、精神病理学的に言っても抑うつは珍しい症状ではありません。しかし、学校に通っていないことや、働いていないということに罪責感を持つ必要はありません。社会や学校の側が異常であるということの可能性がある以上、そこから一時的に避難することは当然のことです。

 必要なのは人間関係の質そのものを変えることです。競争原理を可能な限り弱め、対立を原則とした人間関係から、受容や共感を原則とする人間関係に更新することです。